大分昔、小説を書き始めたばかりの頃、に書いた短編を、久しぶりに見てみた。

カテゴリー: すみっこ

小説サイト「連載やんじのん」 にいくつか短編をアップしようかと考えていたからだ。

すごくなつかしい反面、恥ずかしくて読めない。
恥ずかしいというか辛い、というか、痛い。

で、文章を直そうとも思わない。一度できあがった作品を直すのは難しい。細かいところを直すだけで、何だか色々違ってしまうし、その時書こうと思っていたこと、その世界、その自分、歯もうないから、ちぐはぐな修正になってしまう。やはり一度完成に至ったものは、そういうものなのだと思う。

それがその作品。それが結果。

昨日は親友と川崎で飯を食い、飲んだ。俺が四川料理屋を選んだんだが、彼が辛いものが余裕でいけて、紹興酒がおいしいよね、といって飲むことを知らなかった。不思議だ。俺が変わると周りも変わる。周りの風景が変わる。

味はまあまあだった。というかおいしかった。四川のコアな部分を失わず、そして目につくほどひどくではないけれど、少し日本人が受け入れられるように、した料理だと思った。ピータン豆腐は好きじゃなかったが。サービスもよかったし、お近くの方はぜひ一度行ってみて下さい。

松の樹 マツノキ – 料理写真

そして店を出て歩いた街。結構駅から離れているのに、まあ堀之内とか、そういう有名な界隈も近かったと思うけれど、そうなのに、人がたくさんだった。川崎にはエネルギーがあった。それを撮りたいと思った。今も頭の中に流れている。熱を孕んだ映像。

それを書こうと思ったが、書けなかった。描写をしたいとは思わなかった。この絵をそのまま出したいと感じた。それは多分映画や絵画の領域の仕事なのだろう。だが、それを何とか小説に持ち込むのも楽しいとは思う。よく分からない。

メディアってのどれも並列している。どれが上とか下とかない。特性があるだけ。映画をいつか撮りたい気もするが、俺は多分取らないだろうという気もする。

だからやっぱり、あの街のあの夜のあの熱を、俺が作品にするには、小説という形態以外はないんだと思うし、俺は小説家だからそれは当たり前のことだ。