ごく稀なことだが、人に小説を書いているという話をすると、好きな小説家は誰? と聞かれることが多い。

カテゴリー: すみっこ

今なら多分少し考えて、結局パッと思い浮かぶ中上健次と村上龍を挙げ、海外ではミラン・クンデラとか、最近であれば、ジェイムズ・エルロイ、チャック・パラニューク、などとみたいに答えるが、自分でリアリティを感じないことも多い。最後の二人はこの二年ほどで知ったからいいとして、他は最近は読んでいないからだ。

小説を書き始めたとき、中上健次が一番好きだった。「重力の都(中上健次全集〈10〉)」という短編小説や「岬 (文春文庫 な 4-1)」という中編小説が、なぜか好きだった。

村上龍もデビュー作やその他諸々の作品群も好きだった。

はずだった。

が、もう読んでいない。読みたいと思わない。

最近気づいたのだが、この二人はどちらも俺が生まれる頃にデビューしている。父親の世代の人たちだ。村上春樹もそうかな? 村上春樹は嫌いだが、その著作の半分くらいは、多分読んでいる。ちなみに何が嫌いかというと、彼の主人公が嫌いだ。ああいう感じの人とは僕はつきあえないだろうと思う。

ただ、昨日、村上龍の「村上龍料理小説集 講談社文庫」を読むまで、村上春樹の主人公に感じていたような色を、村上龍の主人公に感じる事が、なぜかなかった。

不思議と、そうだな、多分村上龍の主人公から生活を感じる事がなかったからなんだろうと今は思う。

彼の主人公に感じたことというか、小説に感じたことは、夢、映画、ということだ。夢の生活を映画のように書く。描写も、書き連ねているようで、醒めた画面を書く。村上龍の主人公や女性や友人たちはいつもどうせ同じ類型だ。リスク・情報・恥、そして個人。

多分、以前の俺は、彼の主人公を生活の中に入れて読むことができなかったのだろう。街を知り、料理を知っていなかったからなのかもしれないし、女についても分かってなかったのかもしれない。十年前だから。

今、これまで読んできた小説を読んだら、また違うように感じるだろうな。

(ちなみに人生を通して何度も読んでいる小説というのがいくつかある。ドストエフスキーの罪と罰、カラマーゾフの兄弟、だ。他にもいくつかあるかもしれないが思い出せない。前者は五回くらい、後者は三回くらい読んでいる。読む度に、読んでなかったところに気づく。理解の層が変わる。どの小説も、読んでいる季節で変わるだろう。ただ記憶力が悪くないと何度も読むことはできないと思う。俺はとても悪いので、それが可能だ。)

あ、書き始めてもう十分経っている。十五分で書こうと思ったのだが。

で、料理小説集は二度目だ。さっき書いたようなことを感じた。ただ、不思議なことに、それほど食欲をそそられなかった。いくつか、特にメインで紹介しているものではない、脇役なものを食べてみたいと思った。

さて、もう十五分くらいになるからまとめると、村上春樹も夢を書いていた、けれども村上龍もそうだったということに、俺はやっと気づいた。さっき挙げたようなことでできている、きわめて現世的な夢だ。生活を感じさせない、女と酒とセックスとドラッグとお金、そして恥と罪の。バブルの頃の夢。

だから彼の小説に洗濯物を干したりする場面は決して出てこないし、下着が汚れていたり、女に寝癖がついていたり、口が臭かったりすることは絶対にない。付け加えると彼の女はほとんど、マゾヒスティックな立場に立たされ、性的に搾取されつつも感じてしまう女以外は、完璧に綺麗で自立している。男は、そう男も、寂しそうで自立しているか、恥にまみれている、が性的に満たされることはなさそうな気がする。

どちらにせよ、主人公はいつも同じように、その夢の世界を歩いている。俺はなぜそれに気づかなかったんだろうと、今更思うが、多分その夢の世界に憧れを抱いていたのだろう。俺も世界中で料理を食べたいし、女と寝たいし、ドラッグもやってみたいし、いいホテルに泊まりたい、と。彼の夢が好きだったのだ。

まあそんな事を感じた。適当だ。まとめると他に感じていたことを殺してしまいそうなので、俺はこれでいいとは思わないんだけれど、とりあえずいいか。

いつも、とりあえず、だ。