最近小説の文体について考えたりすることがある。

カテゴリー: すみっこ

実際のところ、あまり考えてきたテーマではなかった。
自分の文章を作る際は、単純に自分の好きかどうかだけで判断していた。
あと、今書いているものにあっているかどうか、ということくらい。

だから、ある意味で自分の素朴な美的感覚的なところだけで考えていて、思考を入れてはいないし、そのプロセスを、その時のルールは明確化していても、全体的には意識化していない。
純文学的なものとか、芸術に足を踏み入れそうなものって、あるいは現代的と呼ばれるものって、どこかそういった挑戦に見えるような、何かがないといけないような気はしてて。
批評性っていうの? よく分からんけど。

なのでそういう意味で自分の小説を芸術的な活動のようには見たことがない。だって、なんか芸術ってわかんないものでしょ? 分かるようなもんは芸術でないっていう気がしてて、で、俺は自分の文章がよく伝わるようにいつも校正するから。根本的に相容れないところがあるよな気がする。
あと自分は古いんだろうけどそういう感じの小説ってよくあるのがやたら長くて句読点を消してずっと書き続けるようなこんな文章がもっともっと続いていつ終わるかわかんなくてそのことで意識の在り方みたいな時間の流れみたいないやそんなもんな訳じゃないんだけどIMEの限界はとうに超えるようなそういう長さの文章だったりあとはやたら固有名詞が多かったりする文章
というように思っている。

まあとにかくそういうスタイル的なところを、俺は磨いていない気がする。
そんで、自分で思ってるのは、たぶん来年か再来年には小説を書き始めて十年になるわけで、そうなったらまあ何だ、一つの脱皮みたいなところにやってきそうだな、と。
今書いている、「トライバルレース」ってのは自分にとって物語を回す訓練のようなもので、あと、遊びとして書いているところがある。あまり読まれてないようではあるけれど、まあそれはあの作品の実力だし、書き始めるときはどんな作品も読まれてはいないわけで、読まれているかどうかというのは書くかどうかにはあまり関係ない。

逆に「アイスファンタジー」はその物語ってところもそうだけど、自分なりには書き方について意識はしていた。あと「菜摘子の絵」もそうかな。アレは自分では失敗な気がする、特に物語のところが、デモスタイルは何となく意識していた。

意識してんじゃん…という話なんだけど、その意識の仕方が、上に書いたレベルのものに過ぎないわけで。

まあよく分からん、そういうようなことをぼんやりと思った。その先のことは実際にやってみないとわかんないし、そういうのは実際の作品の中で考えたりするんじゃないか。

あ、やっぱ作品から出られてないじゃん。

だからいつも《時代》とか《今》とかに俺はアクセスできない気がしてる。