嫌いな文章、妬み嫉み、リアル、場所、文体

カテゴリー: すみっこ

自分が結構時間を潰している場(tumblr)で、自分の嫌いな感じの文章が、たくさんリブログされているのを見ると、ちょっといやな気分になる。

それはその文章が、魅力を持っているということであり、人々の心を掴むということだ。

なのに俺の文章はそうでもなく、嫌なものの方が好かれているということが、とても嫌になるわけだ。ここに自分の居場所がないのじゃないか、と思って。

前から思っていることの一つに、自分が深く関わっている場所、TwitterとかTumblrとか、は自分の作品にとってそれほど向いた場所じゃない、ということがある。俺の作品はラノベでもないし、自意識の溢れたような、あとちょっと心理学とか哲学や人生訓が入っているような文章でもない。多分ごく普通の、小説だ。あるいはちょっと古いような小説だ。

ちょっと、脇道だけど、俺は学問を志していたことがあって、心理学や哲学をそれなりには囓っているのだけど、だからなのか、あまりそういう事を書きたくない。そう簡単に書けるような対象じゃないというか、軽く触れるとそれらを馬鹿にしてしまう気がして。その頃はまだ学問を大切にしていたし、打ち込んでいたつもりでもあったから。
まあそういう事でもなく、単に人生訓的な話とか、抽象的な話を小説内で繰り広げること自体がどうも好きじゃないってだけかもしれない。後者の方が妥当な気もする。例えば俺は日常で人に対して複雑で抽象的な思いを抱いて接することがない。だからそれらが記述されているとリアルに感じない。意識の流れをリアルなものにしたいという思いがあって、その基盤はどうしても自分になってしまうから。あ、これは重要なポイントだな、覚えておこう…。

だからもしかしたら俺が苦手な文章というのは、実は俺と同じような方向性で紡がれていて、つまり作り方は似たような感じで、それでいて俺が理解できないような人間が書いている、というだけなのかもしれない。つまり、普段日常、人と話すときに色々そういう抽象的なことや人生のことをしっかり考えながら、言葉を出して、反応を見て、というような。そうだとしたら本当に俺にはよく分からないし、決して俺はそういう風には書けないのだろう。小説は俺から出ていって外側に膨らんで俺以上のものとなるのだけども、俺という種から育つのも事実だから俺自身がどうなるかというのはそれなりに重要だ。

とはいえそもそもフィクションだ、いくら有り得ないことを書いたっていい。有り得ない意識、有り得ない会話、有り得ない抽象性、有り得ない、間違った、さまざまなことを書く自由が、そこにはある。だから多分ここでは俺の方が不自由になっているのだろう。そこが俺の枷でもあるのだろう。(ここも重要だ…)

話を戻すと、ごく普通の小説は、どこに届けばいいか、ここではないんだろう、そういう風にいつも思いながら、じゃあどうすれば「そこ」に届くか。

もっとも、誰にも届かないかというとそういう事ではなく、どちらかといえば、俺のいる場所にそれほど深く関わっていない人に届いていたりする。これは不思議なことで、つまり Twitter とか tumblr とかをコアに使っていない人の方が、たいてい俺の作品をよいといってくれる。

いま思ったことは、俺は色んな場面で(具体的にいうとあれなんだけど本当に具体的に実際に)、周辺的な人生ではある。出自、生まれ育った場所、通った大学、志した学問、職歴、あるいは血液型とか肉体のとある部分の形状とかそういう些末なものまで、そしてその他諸々。世界には「普通」も「コア」もあるように見えてないのかもしれないけれども、それでもそういう要素たちはあまり、コアな感じを持っていない。いつも端っこを歩いている気がする。

それは偶然そうなったという感じだし、そういうものの延長で自分がつくられているから、そういう方向性でばかりものを選んでいる、ということかもしれない。あまりたくさんの人がいるところで生きていけないのかもしれない。

そして、そういう人たちには俺の何かそういう部分が伝わるのかもしれない。自分というモノは作品に出していないつもりなのだが、消すこともできないんだろう。だから、その人たちは俺の仲間なのかもしれない。

随分書いた。あともう少し書くと、自分はじゃあ嫌な文章を使ってポップに仕上げて(ポップは場所で変わるけれども、ただ世界を包むような真のポップ(ビートルズとか)はある種の美しさがあるとも思っている)、どうにかしよう、という気は一切ない。そもそもそうしたいと思ったってできない。できないからこうなっている。意識でどんなにコントロールしようと思ったって出せるものしか出せない。だからそのあたりに、どうこうしようという思いはない。ただ作品がその心に響くような人々にどうやって届けようか、それは考える。

もちろん、自分の文体というか文章というかそういうものに満足していたり、これでいいという境地を感じていたりするわけではまったくない。いつもとても酷いと思うし、今書いている文章は作品だと思っていないからいいんだけれども、どんな作品でも読み返す度に酷い気分になる。

正確に言えば書いているとき、書き終えたときはまあまあうまく行ったかな、と思っているのだけど時間が経つとほんとにやばい。なんでこんなに下手だったのか、と考えるけれども、下手だった、という事実しかない。恥ずかしいという思いがあるのではなく、もう少しこの作品たちを美しくしてあげられれば良かった、と思う。

とはいえ、一方でその時の美しさがあって、文体は表面だけを繕えるものでもないし、どこかをいじればその作品としての統一が崩れる感じも常にある。だから一度完成したものは、単純なミス以外では修正しない。それがその『時』そのものの記録であり、それを左右するのは自分の歴史を偽ることになるから。

む、何か、時を記録したい、というような言いようじゃないか。そうではない、別にそんなことはどうでもいい。いい作品になることが第一の目的だ。多分、だから、統一を崩すことによって、作品の何かが損なわれる、と感じているから直さないのだろう。その時書いていたある種の状態に、その直したいと思うときの自分は決してなれない。その時の自分にしか分からない感覚があって、それがその統一性を担保していて、だから直すというのはとても難しい。そういう感じだ。

どうもたくさん書いているな、何を書きたいのか分からないような文章だ。まあここはそういう場として考えているから、いっかな…。