文字入力、変換、修正、意識、時間、小説

カテゴリー: すみっこ

今朝、目を瞑って、モニターの電源も消して、文章を打ち込んでいたのだけど、その途中、変換酷くなっているかなー、と思ってからこういうことを考えた。
括弧は今補足したもの。

やはり(画面を)見ていると、修正の意識が入る。修正の意識が入ると、そこで思考が一瞬止まるというか待たされる、このギャップがぼくはとてもじゃないが許せなさそうだ、スループットを、すこし邪魔するからだ。
無意識が意識化する、言葉化する、ことの条件が、その時間だとしたら、僕らはデバイスを限りなく改善して行かなきゃいけない。僕らはデバイスによって無意識に達しようとしているんだ。鉛筆は遅い、これ(キーボードでの入力)よりもずっと遅いスピードでしか書けない、だから前世紀の小説は、遅い意識によって書かれたものだ。

後段の文章は、 マインド・タイム 脳と意識の時間 の知見からだ。これは後々別の場所に抜き書き等してめもをつくる。
まだこの書籍は途中までしか読んでいないため、無意識から意識化されることの一部分しか書かれていない。もう少し、進んでからさらにこのことを考えたい。

意識化と言葉化の違いとか、意識に上らなくても結構言葉は出てくるとか、そのあたりの問題もあるからいろいろ考えられる。多分、キーボードを打つ僕らは、手が口になりつつある。会話するときはたいてい、考えずにしている人も多いはずだ。そして話してから「ああそういう意味じゃなかった」とか「いいたいことはそうじゃなくて」とかいう訂正をすることもある。これは、意識的な自分が話す主体ではないことの証拠に近い。

僕らの手は口になりつつあるのだけども、それでも変換などの手続きが必要で、そのせいで手は流暢に話せずにいる。もう少し流暢に話せるようになったら、そしたら文章もまた変わるし、小説も変わるだろう。かわらんかもしれんけど。

まああたえられた条件でやっていくしかないけれども、そういう先々の在り方も気にはなるのだ。