インスピレーションを探しに行くということ。

カテゴリー: すみっこ

これといって書きたいことがはっきりしていないときに書き始めるというのは、この前このサイトでやっていた、十五分の物語 での縛りと近いものがあるかな。

というか、インスピレーションを探しに行く訓練。

だけど、訓練ではいけない。今できるすべてをつぎ込んで書きたいと思ってる。それでいて過去のネタとかにはまったく頼らずスクラッチから。

そういうふうに書こうとは決まっているのに、その時に、これを書きたいんだ、というようなものがはっきりと現れていないのはある意味不思議だ。

通常は、何らかのシーンが頭の中に浮かぶ。そのシーンを書きたくて物語が作られていく。あるいはそのシーンそのものを書くだけで終わることもある。短編はそうやってできる。それで満足できないもの、あるいはそのシーンだけでは何だかそれが内包しているものを描ききれないと感じる事、それかそれ以外にも楽しくなっちゃったもの、とかが長くなる。

シーンというのは夢でもあったり空想でもあったり。

そういう種がどこからか来て、それで小説を書くんだけれども、その種がないのに書き始めるというのは不思議なこと。

けれどもうその種らしきものはたくさんあって、それが実は奥深いところにあるんじゃないか、っていう考えだってあり得る。意識に上るくらいに成長する前の種。あるいは受精する前の状態。

意識に登るということが、芽吹いて小さな葉、短い茎となった状態だとするなら、その前の段階から存在しているなら、その本当の種の状態を見つけに行く、そういうことだって可能なはずだ。

忘れてしまった夢がすべてくだらないと誰が決められるんだ?

インスピレーションを探しに行くというのは、そういうこと。

芽吹くだけの力がある種は俺自身にとって、非常にエネルギーを持っているものと仮定することはできる。当たり前だ。

だけれどもそれは、俺の無意識というよりは意識に、自我に届くというエネルギーなだけであって、ある種のフィルターを通り抜けたというだけの価値しかないかもしれない、そういう意味でもある。

というわけで、探しにいって何か見つかるといいのだが。

まあ、自分がうんだものをすべて使うなら、探すということと、出てきたものを無駄にしないということは、矛盾するわけでもないし。ゆったり考えよう。