Twitterをやめて、言葉の圧力が高まった。

カテゴリー: すみっこ

のだと思うんだが、やたら何かを書きたくなって仕方ない。

ということはここでもう一段、このブログやら何やらの、僕からガス抜きする活動をやめることで、きっと小説はその姿を変貌させるだろう。

結局僕にとってこの数年の、ネットへの言葉の流出は、悪に過ぎなかった。それによって様々な良いことも経験し、新たな人々にも出会い、幅広い知識も得られたけれども、こと小説の一点に限ってみれば、小説に向かうべき圧力を下げるという効果しかなかったのではないか。

長い六年、あるいはそれ以前も合わせてかなり長い時間、僕はダメな過ごし方をしてきたのだ。

というわけできっと、こういう風に書くことさえも、僕はまた禁じる流れになるんだろう。多分そうだ。そういう風にしか僕は生きられないのだ。

というか要するに僕という器、あるいは水のたとえで言えばホースは、ひびというか穴があって、しっかりと遠くまで飛ばすことの出来ない状態だったんだな。小説そのものよりも、それを産むための僕という人間の在り方に、僕は目を向けるべきだったのかもしれない。

こんなことはわかりきったことで、今までだってわかっていたんだけれども、実行しないと本当にはわかったことにならない。だからいつも気づきは何年も遅れてやってくるんだけれど、そういう時に僕は「今は遺された人生で一番若い」と言って慰めるんだ。
あるいは、「これをはじめるのにいい時期は二十年前だった、二番目にいい時期は今だ」と中国のことわざだと思い込んでいることをうそぶく。僕はかなりレベルの高いポジティブシンキングを身につけている。

でもきっと、そんな慰めがまったく効きもしない時期が来る。もうすぐそこにそれは来ている。そうして僕は本当の鬱にであうときが来る。その鬱、あるいはなんだろう、自己の人生に対する強烈な幻滅、それかその幻滅の影に潜む死の恐怖に出会うときに、そうしたライフハック的な浅はかな言葉しかもっていないとしたら、僕はきっとその時本物の危機に陥るだろう。

おっと、また話がそれた。話がそれるのはちょっとした快楽がある。思いつきのまま書くのはとても楽しいものだ。それが例え、誰の耳にも届かないものであったとしても。