牙を突き抜けさせること

カテゴリー: すみっこ

もうTwitterで語ることはないし、tumblrとかでも、くだらないポエム書くことくらいしかしないと思う。

小説を書きたいけれど、まだ書けないでいる。
しばらく書かないんだろうと思う。
インプットの時代と位置づけてる。
現実の時代とも位置づけてる。
会社の経営に乗り出している。
そこで社会に貢献して金を稼ごうと思っている。
現実を生きるってことだと思っている。

それでもすべてのことがくだらなく思える。
小説を書く以外のことすべてがくだらなく思える。
新しく買ったMicrosoftのSculpt Ergonomic Keyboardがまだ慣れない。
deleteとかPageUpとかEndとかHomeとか矢印とかあたりのキーボードの位置が肉体に染みついていない。
一瞬戸惑いが入り、それが積み重なって、時間の流れが変わる。

キーボードとかに適応しまくることを過適応と呼ぶ。
それは嘘で環境へのやり過ぎた適応のことを言う。
マンモスとかサーベルタイガーの牙のことを言うらしい。
とはいえ間違った学説らしい。

それでもぼくの指はキーボードに過適応しようとしている。
まったく間違わずに見ることをせずに完全に意識を媒介させずに完璧に打ち込み、編集し、修正できるようになりたい。
キーボードなんてあと何年あるかわからないけど、このデバイス以上に書き言葉を早く打ち込めるものは今のところない。

どうでもいいことを書きたい、あるいは単に何かを書きたい、そういう人のために、純文学がある。あるいはあった。純文学は何かを書くために物語を使い始める。物語は言い訳だ。言い訳としての物語があるから楽しくないものができあがる。

楽しくない小説を人に読んでもらうのは気が引けるが、ぼくは楽しい小説を書こうとする自分にも気が引ける。
そのくせ人に読んでもらいたいという欲求だけは、ぼくのどの小説も、そしてもちろんこの世にあるすべての小説も、平等に分かち合っている。すべての小説の根幹に誰かに読んでほしいという欲望がある。それだけが小説の基本的な欲望であり、存在意義と言っていい。ただ書くだけなら、小説という形式ではなく、日記こそがふさわしい。他人に向けて書いた瞬間に、文章は日記以外のものになる。だからこの世には日記とそれ以外の文章しか存在しない。日記を書き続ける人は死後にそれが読まれることを、どこかで期待しているのかもしれないが。

森の中で倒れた木は音を立てるか、そのとき音は存在するのか、という仏教か何かの公案があった気がしたが、誰にも知られずに書かれた小説は、誰にも読まれずにいて存在するか、そういう公案が売れない小説家の中には常に存在する。砂漠の真ん中で歌われた歌は、誰かの心を動かし得るだろうか。

それは、存在しているかどうか、ってのと近い。読まれないものは存在しているか。読まれるために書かれたものが読まれないなら、それはどういう行為だったか。

読まれるためにはおもしろくないとならないという気持ちがある。普通の感覚だと思う。それでも、個人的には、おもしろくてもおもしろくなくてもどっちでもいい。そんな気持ちもある。おもしろさ自体が非常に曖昧な概念でもある。一方でそれはぼくがこれで金を稼いでいないからだとも思う。それに、上のように書きながら、心の底ではおもしろかったと言ってほしいとも思っている。そう感じさせたいと強く願っている。そうして人々に広まってほしいと思っている。

自分は中途半端だなと思っている。小説に関して。その欲望に関して。

どこかで自信がないんだろうなと思っている。どこかでエクスキューズしているんだろうなと思っている。ある程度は、人が受け入れやすいスタイルを取ろうと思っている。その人というのが誰なのかわからないままそうしている。

そんな感じのものがぼくのエクスキューズで、すべてをダメにするエクスキューズなんだろうと思っている。ぼくはだから、まだ本物の小説を書けていないのかもしれないと思っている。分かれ道だろうが、きっとどちらかを捨てたときに、何かに至れる。
それはぼくにとっての本物の小説だ。
それは日記に近いのかもしれないし、会社の経営に近いのかもしれない。
あるいは単なる幻かもしれない。

(会社の経営で見いだしたと思えているニーズみたいなもの、外側にあるものが、ぼくにはまだ見えていない。そこが肝なのかもしれない。見えていてもそこには行かない。そこが肝かもしれない。あるいはこのあたりはすべて錯誤なのかもしれない。)

会社のことは、ニーズの流れに沿ってやろうと思うし、それに対してまったく引け目を感じない。会社の活動、経営、営業はすべて日記とは正反対の活動で、すべて社会に向いている。現実的な活動。公的な活動。ただ、どこかで私的なものが交わるなという気もしているが、それは追々書くことになるだろう。

ぼくはきわめて私的な領域のものを公的なものへと持っていく手段として、もちろんそれは書くこと自体が目的でもあるのだが、それをやってきて、今は休んでいる。

何度かいろんなところに応募して結果が出ないという事実もある。少し休んだ方がいいんだ、そう思っている自分もある。行き詰まりを感じているのかもしれない。書きたいことはたくさん列をなして待っている。その中で自分の主となるものは見定めている。

それでもそれだけじゃない。何かそれだけじゃない、そう思っている。